Arnold & Dent社のガラス製ヒゲゼンマイについて
1833年から36年にかけてイギリスで実施された、Arnold & Dent社のガラス製のヒゲゼンマイを搭載したマリンクロノメーターの精度測定実験。
本稿はこの実験について研究した下記論文を参考に記述しています。
https://discovery.ucl.ac.uk/id/eprint/10104338/1/Bulstrode%20%26%20Meek%20AH.pdf
実験がもたらした大きな影響
1.温度変化による日差の変動は、熱によるヒゲの伸び縮みではなく、弾性率の変化が主原因と判明
2.中間温度誤差が発見された
3.クロノメーターの性能試験に温度測定が必須であると認識された
4.温度変化を補償する機構の開発競争を加速した
興味深い点1. 温度の精度への影響について無頓着だった
ガラスヒゲの検証以前は、イギリス時計製造業界は温度変化について細かい注意を払っていなかった。
- 一年通期での自然の温度変化に任せるのみで、試験期間中にクロノメーターを一定の高温低温で試すことも行われていなかった。
- クロノメーター測定室の温度を、年間通して計ることは制度化されておらず、記録には抜けがあった。
そのため、自然の温度だと天文台毎で環境が違うし、どの季節に測定するかでも性能に差が生じてしまっていた。
1835年に「エアリーの定理」で有名な George Biddell Airy が王立天文台長に就任。
Dentのガラスヒゲゼンマイの研究結果を踏まえて、これらの改善に着手している。
1843年に設立されたリバプール天文台には、クロノメーターを高温試験するための初の「専用オーブン」が備えられた。
興味深い点2. 温度が精度に影響する原因がよくわかっていなかった
ガラスヒゲの検証以前は、温度変化がどうして時計の遅速に影響するのか、原因の研究が進んでいなかった。
- ガラスヒゲの試験研究過程で、熱によるヒゲの伸び縮みではなく、弾性率の変化が日差の主原因と判明
- 高精度のクロノメーターを平温に合わせて精度調整すると、高温でも低温でも遅れになることを発見 (中間温度誤差の発見)
図:Hartnup balance
The Marine Chronometer Its History And Development(1924)より抜粋
リバプール天文台の初代台長であるJohn Hartnupは「中間温度誤差」に注目し、1849年頃に有名なHartnup balance(ハートナップ テンプ)を発明している。
図:Horology(1937)より抜粋
◆中間温度誤差とは
低温から高温へ、温度変化の歩度への影響をグラフにすると…
・ヒゲゼンマイ:減速傾向の曲線を描く (S)
・バイメタル切りテンプ:加速傾向の直線を描く(L – A = B)
→曲線と直線では相殺できず、中間付近の温度において歩度が進みになってしまう(M)
※S=ヒゲゼンマイ(Spiral)、L=真鍮(Lation)、A=鋼鉄(Acier)
B=真鍮と鋼鉄のバイメタル切りテンプ(Balance)
M=中間温度誤差(l’erreur température de moyenne?)
ガラスヒゲの物性と生産上の欠点
Dentはヒゲゼンマイの素材が完璧に均一であれば、日差の問題の多くは是正されると認識していた。
純度の高いガラスだけでなく、鉛の含有度が高いガラスも素材として採用していたのは、鉛が溶融剤として働くことで成分全体が均質化することを期待していたため。
温度と弾性についてDentの理論は現代から見ると間違っている部分があるが、「素材の重要性」に着目していた点を高く評価する必要が有る。
「技術革新の分析では構造・デザインが注目されがちだけど、素材も大事」という視点は、現代の製品としての時計を見る上でも重要だと個人的に気づかされた。
なお、ガラスヒゲゼンマイには、状態が安定するまでに年数がかかるという欠点があるとのこと。
青線が日差、赤線が温度(華氏) 。
グラフの通り、3年間の試験において、温度変化とは関係なく歩度が進み方向に加速している。
何故ガラスヒゲは普及しなかったのか?
Sotheby’sにガラスヒゲのNo.1771展示用個体が出品された際、以下のように説明されている。
一般に使われなかったのは、ガラスは半流動体であるため、時間の経過とともにゼンマイの性質が変化してしまうからである。
https://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2004/masterpieces-from-the-time-museum-n08039/lot.652.html
近年新たに製造されたガラスヒゲの個体の試験でも、10年以上の長期運転で性質は安定する傾向にあるが、変動幅は小さくなってはいるものの加速傾向の変化が確認されている。
下記の画像はAnthony G Randall氏(元英国時計協会会長)が2000年頃から製造しているガラスヒゲゼンマイ。
グラフは同氏が作成したガラスヒゲを約13年間連続運転した際の末尾400日間のデータ。
一旦安定した後、若干の加速傾向となっている。
画像、グラフ共にHorological Journal 2009年2月号 より抜粋
以上から、ガラスヒゲが当時の水準では性能的に優れていたにもかかわらず普及しなかったのは、性質が安定するまでの寝かし期間が長すぎることが原因だったのではと思う。
デント自身も1837年に「(ガラスヒゲの寝かし期間は) 資本が封じ込められてしまう」と語っている。
結び
ガラス製ヒゲゼンマイを知ったときの感想は、驚くとともに、「折れずにちゃんと動くの!?」
気になって調べたところ、ガラス製ヒゲゼンマイの発明が時計の精度向上に大きな影響を及ぼしていたことを知り、2度びっくりです。
冒頭で紹介した論文もとても面白い内容ですので、よかったらDeepLなどを使って是非読んでみてください。